BIOGRAPHY
Biography 1994-1995
1994年、於某大学、ブルースパンクバンドThe Elephant Shotのフロントマンである安東和光(リーダー)とギタリストの池田真(イケヤン)が、それぞれに在籍していたバンドの解散を機に再びセッションを始める。
リーダーからの誘いを受け、数ヵ月後にはWater Loo Sunsetsのドラマー飛田和則(ダーヒー)が加入し、The Hysteric-Annを結成する。技量とセンスを兼ね備えた若きトリオは1ヶ月足らずのスタジオリハだけでライブハウスのオーディションをことごとくクリア、大阪と京都の4箇所のライブハウスと出演契約を取り交わしその一歩を踏み出した。同年10月にはバンドのファーストシングルとなる「そんな君よりは」をレコーディング。3ピースバンドらしいストレートで骨太なそのサウンドは今聴いても新鮮。
Biography 1996
結成から2年、ライブハウスで定期的に出演し活動を続けてきたバンドのサウンドに変化が現れ始める。結成当初の荒削りなロックサウンドではなく、プログレッシブなベースラインを基調にヴォーカルとギターリフが絶妙に絡む独特なサウンド。「夢の重さ」や「モノクロームの人生」などは、この時期の代表作である。レコーディングにピアノやハモンドが加わるのもこの頃からで、ライブよりも作曲活動に注力した時期でもある。歌詞の内容もそれまでの自省的なだけのものではなく「神様さえお金に困る世界」や「傷ついた鳩を抱きながら」「君のその涙に」のようなメッセージ色の濃い内容のものが多くなった。
Biography 1997-1998
1997年1月、バンド初のアルバムとなる「The Hysteric-Ann First」を制作。リーダーのベースを軸にしたややプログレッシブなヒスアンサウンドの集大成となった。しかしながら、このファーストアルバムのリリース以降、バンドは何故かその音楽性をガラリと変えてしまう。様々なジャンルを消化し融合させ、音楽そのものを追及する彼等が次に目指したのは、よりポップでソフィストケートされたサウンドだった。結成当初のスタンダードなロックからプログレッシブな作風へと変化してきたこれまでを第一期/第二期とするなら、ポップ/ポストロックへとシフトしていったこの時期を第三期と言えるだろう。ただし、この時期のサウンドの変化についてイケヤンはこう語っている。
「何も変わってなんかないんだよ、本当は。聴き易さとオリジナリティなんだ。もう、ずいぶん長いことリーダーとはバンドをいろいろやってきたわけだけど、リーダーって俺から見ても確かに才能のある男でね。自分のことも含めてバンドが何をやっていくべきか?どういう風にやっていくべきか?とか、何がやりたいのか?っていうのを、いつも変わらずにちゃんと解っているんだよ。リーダーの書く曲って誰が聴いても既成のものとは異なるわけで、でもそれは、音楽っていうものを無理にジャンル分けした場合のことであって、実際、俺等が吸収し、消化して生み出すものには変わりはないわけだし。だから決して音楽性が変わってしまったというわけではなくて、根本的には同じものだよ。ただ、以前よりもずっと「バンドらしさ」ってことをメンバー全員が意識し始めたのは確かだよね。The Hysteric-Annだからこそ創り出せる何かっていうのをね。これはライブでも固定のファンがつき始めたことにも起因していると思うよ。リスナーが自分達に求めているものって何だろうっていうことも大事だというわけさ。一体それは何なんだろうって考えるようになったってことだよ。」
実際、この時期には鰻上りの人気を博したバンドのサウンドは、既成の音楽カテゴリーの枠を越えてリスナーに支持されたようだ。その先駆けとなったのがシングル「ハイウェイスター」であり、以降1998年のバンドとしての活動休止まで数多くの曲が制作され、セカンドアルバム「H.A.S.F.」としてリリースされたが、レコーディングマスターが紛失したため、現在音源として残っているものは数曲となっている。
Biography 1999-2000
1999年3月、これまでのレコーディングにも参加していたチィがベーシスト兼コーラスとして正式に加入する。バンド名をSoul Recovery Co.と改め、そのサウンドは第四期へと突入した。ベーシストの交代、そして何よりもメンバーに女性を迎えたことは音楽性だけでなく、そのスタイルにも影響を与え、バンドはより一層洗練されたものとなった。チィの加入に際してリーダーは当時出演していたライブハウスのマネージャーにこう語っている。
「チィをバンドのオリジナルメンバーとして招いたのは戦略だよ、いろんな意味で。彼女はあのとおり美人で、ステージにしても3人で演奏していた時よりも断然、華やかになるし。現在、僕等がやっているジャンル、趣向にはベーシストに女性が加わることが何よりだしね。歌詞にしたって、これまでの僕なら「悩める若者の世間を憂う歌」」が大半だったけど(笑)、彼女がそばにいてくれることで女性の気持ちやセリフを違和感なく歌えるし。ベースラインにしても僕なんかよりずっと単純明快でポップバンドらしいのを弾くしね。」
この時期の音源制作としては、「雑踏で」「U.F.O.」の2曲だけと少ないものの、2000年の4月には約1年ぶりとなるライブ活動を再開。SFテイストのステージンでブリットポップクァルテットSoul Recovery Co.は他の追随を許さないバンドへと変貌を遂げた。
Biography 2001-2002
2001年2月、リーダーとイケヤンによる街頭ライブが敢行されバンドの次なる活動が期待される中、5月にチィがジャズボーカリストへ転進の為にバンドを脱退。再びトリオ編成となったSoul Recovery Co.であったが、パンクからプログレッシブ、ロックそしてポップへとシフトしつつも様々なジャンルを吸収してきたバンドの縦横無尽な演奏スタイルとサウンドは健在で、10月にはミニアルバム「サテライトオブラブ」を制作、同年12月から翌年の11月までの長期にわたりアコースティックセットによるライブツアーを展開した。ツアーではこれまでのオリジナル曲は勿論のこと60'sから80'sの洋楽名曲のカヴァーやステージで演奏された珠玉の新曲の数々を聴く限り、そのサウンドはこれまで培ってきたすべてを見事に昇華させたのだという印象を受ける。リーダーのソングライティングも一層洗練されたものとなり「グレートサニーディ」のような甘く切ないものから「レプリカ」のようなメッセージソングまで幅広く書き上げられている。
Biography 2003-2004
2003年に入ってからはメンバーを基本ユニットに、毎回ゲストアーチストを迎えながら定期的にライブを展開。これまでのアコースティックセットによる活動の産物とも言える名曲「インディアンリヴァー」など、極上のポップサウンドからさらにさらにサウンドシフトしてポストロックな趣まで奏で始めたSoul Recovery Co.。もはやジャンルやカテゴリーの枠を超越した圧倒的な存在感を放つバンドとなった。しかしながら同年6月にはリーダーのソロアルバム「PLAY ALONE」がリリースされるなど、他メンバーも別プロジェクトのサポートやゲスト出演など単独の活動が多くなったようで、以降、実質的には活動休止中となる。
Biography 2005-2006
活動再開が待ち望まれる中、2005年11月には2枚組CDアルバム「1994★2001」がリリースされる。結成以来の音源を収録したいわゆるベスト盤で、このアルバムの発表によりファンの間ではいよいよ活動再開かと噂されたが、結局、このベスト盤のリリース以外何の音沙汰も無く依然活動休止状態のままであった。ただし「地下鉄に乗って2つ目の駅」のニューバージョンやパーカッションに新しいメンバーを加えての「インディアンリバー」など、スタジオでのリハーサル模様がネット上にアップされたため、しばらくはファンの間でも活動再開説は収まらなかった。
Biography 2008
2008年3月、ホームページ掲示板にバンドの活動休止が宣言される。
Biography 2012
2012年5月、Soul Recovery Co. Web Siteが更新!
Biography 2014
2014年12月、20周年を記念して「地下鉄に乗って2つ目の駅」のアニバーサリー版EPがリリース。
Biography 2017
2017年4月、1996年6月にリリースの「神様さえお金に困る世界」が再録されてニューリリース。
Biography 2018
2018年12月、リーダーによる別プロジェクト(ザどしろうと)が出演したジョージハリソン追悼ライブにイケヤンがゲスト客演。中盤に登場した(ザどしろうと)はオーケストラをバックに「ホワイルマイギタージェントリーウィープス」を演奏。
リーダーとイケヤンの共演は13年ぶり。
UPDATE 7/JAN/2026